私のナラティブ

正しいかどうか別として ごちゃごちゃ頭の整理箱

砂糖菓子か実弾か

『砂糖菓子の弾丸は撃ちけない』

 

桜庭一樹さんの名作。

 

私がこれを読もうと思ったキッカケは、

百合要素があると聞いていたから。

 

そんな下劣な自分を殴りたい。

でも下劣だったから、私はこの本に出会えた。

 

ありがとう、下劣な自分。

くそやろう、下劣な自分。

 

このブログのリンクはインスタかFacebookにしか載せてないから、

きっとこれを読んでくれている貴方は

私と同じくらいの年齢だと思っている。

 

そんな、これから社会人になる人、

社会人になりたての人、

本質的な意味で、「大人になる」

時期に差し掛かっている人にこそ、

この本を一度読んでみてもらいたい。

 

これは、

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んで、

 

子どもから大人になるということ

子どもの戦い方

 

について思ったことを、

ひたすら私がロリポップとして銃口から飛ばしまくる、

そんなはなし。

 

私なりの砂糖菓子の弾丸を受け止める前に、余計なことは何も考えず、

一度この本を読んでもらうことをお勧めする。

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この物語のキーワードは、ずばり

「砂糖菓子の弾丸」

である。

 

私はこの本を読み終えても尚、

この言葉の本当の意味が分かっていない気がしてならない。

桜庭さんの考える「砂糖菓子の弾丸」とは、一体なんなのか。

 

これを見てくれて、本を読んでくれて、その意味を考えてくれたら、

もしよかったらでいいから

コメントしてほしい。

 

みんなの考え方が気になる。

 

 

 

この物語の主人公の女の子は、

アンチ「砂糖菓子の弾丸」、

つまり「実弾主義」である。

めちゃめちゃ砕いていうならば、

アンチ「アポロン型」であり

つまり「リアリスト」なのだろうか。

少し違う気もするが。

 

思想云々もあるが、

弾丸の表現からすると

考えの表出の仕方、つまり

直接的に働きかけるか、

間接的に働きかけるか、

な、気がしている。

砂糖菓子の弾丸は使えないのか?

 

そして、

砂糖菓子では大人と戦えないのか?

…その点に関しては、

最後に話そうと思う。

 

 

私自身がアポロン型寄りだから、

主人公のその考え方には

冒頭からとても気になっていた。

なんでそう考えるんだろう?

何があってそうなった?

勿体無いなあ、と。

 

そんな主人公の前に、

変人美少女転校生が現れる。

その子は主人公とは正反対、

「砂糖菓子の弾丸少女」

であった。

私は人魚だの、姫だの、卵を産むだのなんだの、言っていることが無茶苦茶だ。

だか、妙にリアリティがあり、辻褄が合っていて、もしかして本当かもしれない、そう思わせる何かがある。

彼女は、自身の残酷な現実を正面から受け止められず、妄想という名の砂糖菓子の弾丸を撃っていた。

それが唯一の自己防衛だった。

 

 

そしてもう1人の主要人物、主人公の兄。

この人も砂糖菓子の弾丸を撃つ。

しかし、変人美少女とは違う。

家庭で彼は、神々しい存在であった。

世の中を俯瞰し、だが決して干渉せず、賢く、優しい人である。

これから起こりうる面倒ごとから回避する為に、彼は砂糖菓子の弾丸を撃つ。

 

主人公は生活保護を受けていて、幼い頃に父親は死んでしまった。

母親と兄と暮らしているが、兄がニートで金遣いが荒く、父親の保険金が底をついてしまう。

主人公は、自分が悲劇のヒロインだと思っていた。

だからこそ、何の結果も伴わないコトバアソビではなく、ただ自分が生き残る術を模索する。

 

一方、変人美少女転校生は父から虐待を受けていた。

彼女はただの変人嘘つき妄言少女なのではなかったのだ。

 

生活保護ニート、虐待…

私が関心のある話題ばかりだ。

実際、特に虐待問題では勉強になった。

フィクションではあるものの、

ストックホルム症候群の生々しさを垣間見ることができた。

 

最初はそんな「実弾」以外に関心がない主人公であったが、徐々に変人美少女転校生に興味を持っていく。

そして、本当に悲劇的なのは自分では無く、彼女であることに気づく。

その時彼女は、一歩、

大人の世界に踏み込んだのだ。

 

変人美少女転校生の妄言を嫌がっていた主人公。

 

しかしいつしか、

それが本当であってほしい、

心の底から強くそう思うようになる。

大人の世界を見たからこそ、

彼女は砂糖菓子に惹かれる。

 

大人の、この世界から抗おうと、

逃げることを決心するふたり。

 

そして、待ち受ける現実。

 

 

「砂糖菓子の弾丸では子供は世界と戦えない」

 

それが、主人公の、

魂からの答えであった。

 

 

 

 

結末は冒頭でガツンと知らされているので、読者はカミサマみたいな感覚で彼女らの葛藤を眺めることになる。

 

伏線もしっかりとあるから、

読みながら、だんだんと、これから起こる結末の実感が湧いてくる。

 

彼女たちは、どうすれば幸せになれたのか?

どこから間違ってしまったのだろうか?

そもそも、間違っていたのだろうか?

 

非常に考えさせられる。

だが、一向に答えが出ない。

 

子どもにとって、

世界で生きる為の精一杯の武器、

それが「砂糖菓子の弾丸銃」。

 

 

確かに、この物語では

それでは立ち向かえなかった。

身をもってそれを学んだ主人公は

子供としてこの世界を生き抜き、

大人になるのだろう。

 

砂糖菓子の弾丸を捨て、

鉄の鉛を銃にこめる。

それこそが、大人なのかもしれない。

 

だが、そうした実弾でないと、

大人には響かないのだろうか。

それは虚しすぎるし、

そんなことは無いと思いたい。

甘い甘い砂糖菓子が響く大人はいないのか。

 

 

この本自体も、本質は

「ニセモノの弾丸」

だと思っている。

砂糖菓子ほど甘くはないが、

実弾は入っていない。

物理的に誰かに何かが起こるものではない。直接作用するナニカはない。

ただ、誰かの内面には必ずナニカを起こす。目には見えない何かを。

 

実弾でなければ戦えないのだろうか?

非実弾で戦いたいと強く思っている自分はまだまだ子どもで、

だからいつしか死ぬのだろうか。

それとも、揉まれて大人になって、

リアリストと化すのだろうか。

 

 

私は、実弾を打つことに限界があると、

福祉事務所の実習を通じて感じた。

実弾を打とうとするならば、

私は1人ずつじゃなきゃ実弾を打てない。

何とか照準を合わせて、実弾を打つ。

打ち終わったら、また1人。

その繰り返し。

私のターゲットは一向に消えることは無い。すぐに湧いてくる。

何なら後ろで行列ができている。

弾丸はどんどん減り、すぐに無くなる。

しかし、弾丸を作るのには時間と手間がかかる。

そんな消耗戦。

そういう戦いは必要である、なぜなら最後の砦だから。

でも私は、それよりもやりたいことがある。

 

実弾を自らに、そして他人に打ちこめる人を増やすこと。

 

そうすれば、そんな消耗戦に必要な戦士は減るはずだ。

 

自らに実弾を、他人に実弾を打てる人。

どうしたら、そんな人が増やせるか。

どうすることで、そういう人となるキッカケとなるのか。

 

それこそ、私は

「ニセの弾丸」

なのだと思う。

ニセの弾丸であれば、

砂糖菓子であったり、ガムであったり、

スナック菓子であったり、

食べ物でなくても、箸置きだったり、消しゴムだったり。

何だって使える。

幾らでも飛ばせる。

 

甘い弾丸やすっぱい弾丸、

苦い弾丸や辛い弾丸、無味な弾丸、

それぞれに良さがあり、

人の心を動かす何かが必ずある。

 

私はそんな弾丸を撃ちまくって、

少しでも多くの人に

実弾の使い手になるきっかけを作りたい。

 

宗教とか、その典型的な例だ。

(私はその一門になりたくはないが)

 

大人だったら、

砂糖菓子の弾丸をぶっ放しても

世界と戦えるのだろうか。

子どもだから、

砂糖菓子の弾丸では戦えないのか。

扱う人間の問題なのか。

 

 

…考えを整理したかったのに、

逆にごちゃごちゃしてしまった。

 

 

子どもだから分からない。

大人の世界が分からない。

 

 

もし私がこの本の主人公だったらどうなっていたのだろうか。

 

私は、砂糖菓子の弾丸で、

大人と戦い抜きたい。

誰も死なないように。

 

子どものまま、大人の世界で生き抜きたい。